top of page

いのちをかけて

 

 

  私が神学生の時、奉仕していた教会に神戸のナザレン教会があった。私はそこの若者たちのための牧師のような奉仕      

 だった。彼らは本当にすばらしいクリスチャンで、多くの者が小学生の日曜学校の先生をしており、みんなで一緒に

 遊びに行くのにも、近くの孤児院で紙芝居などの奉仕をするのにも、近くの教会に賛美の奉仕をしに行くのにも、教会 

 に集まっては楽しく交わっていた。時には二人、三人で涙を流しながら祈っていた。自分たちの学校で聖書研究の集ま

 りを持つ者もいた。自分たちで賛美の歌を作り、いつも歌っていた。

  その教会の牧師はM先生という初老の牧師だったが、私もいつも日曜日は夕食を共にさせていただきながら、若い時

 の体験談などをその牧師先生からお聞きしたものである。特に、牧師が肺が半分しかないのに、どうしてそんなにお元 

 気なのかとお尋ねした時、こう話された。「終戦直後の時代は今の皇室もクリスチャンになるかと思われるほど、たく

 さんの人が教会に押し寄せてきた。私も若かったので懸命に伝道したが、当時は死に至る病いといわれる結核が流行っ

 ており、私も罹ってしまった。医者に行った時にはもう手術できるギリギリの状態だった。医者にはこれ以上無理をし

 て人前で話したり、働いたりするとすぐに死んでしまうから、伝道などは絶対にしないようにと言われた。

 けれども、私は心に燃えるものがあって、安静にしておれず、死ぬ気で伝道した。気がついたら、末期の肺結核が癒さ

 れており、今、君が見るように元気にしていただいている。」といった証しだった。私はああこんな主の弟子である先  

 生に、こんなすばらしい教会がゆだねられているのだなあと思った。

 

 

   『自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い

      わたしのために、自分のいのちを失った者は、

        それを自分のものとします。』

                  (マタイ 10:39)      

> 文書メッセージ

 

 

 Ogori Grace Church

 

bottom of page