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死のとげはぬかれた

 

  メッセンジャー 小林 啓一

 

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありまぜん。このことを信じますか。」(ヨハネ11章25・26節)

 「神様、助けてください。もう1回生きるチャンスを与えてください。もう1回与えてくださったら、もう少しましな生活をしてみせますから。」真夜中、救急車の中で、20歳の青春であった私は生まれて初めて神様にそう叫んでいました。

 実はその半年ほど前、私は友人に誘われてある学生のキャンプに参加していました。そこでこの世界の創造主である神様を信じ始めていました。また自分にも罪があることも少しわかりかけていました。けれども私は自分が変えられるのがいやで、そのまま学生生活に戻っていたのでした。聖書は読んでいましたが、生活の実態は、パチンコ(本代にと親からもらっていた)、マージヤン(金をかけていた)、女の子(片思い)が中心でした。

 

 死への恐れからの解放

 

 自分で何でもできるように思っていましたが、何ともできないことがありました。死の問題でした。ある日突然 原因不明の呼吸困難に襲われたのです。「死のとげは罪」(Iコリント15章56節)と聖書にある通り、私は死の恐れと心の痛みでパニックになりました。冒頭の言葉は、今死ぬかもしれない者にとって理屈ではなく本当に力強いイエス様の言葉でした。私はわらにもすがる思いで復活びイエス様を信じたのです。病院の少し落ち着いたべッドの上で、私はかけつけてきた家族に「お父さん、ぼくクリスチャン

になるよ」言っていました。みんなポカンとしでいましたが、その時私の全身を包んだ不思議なまったたき平安を、今でもよく覚えています。

 

復活の主による赦しと永速の命

 

 さて復活の主は、私ばかりでなくすべての人に少なくとも次の2つのことを証してくださっています。1つ目は、罪の赦しの確証です。復活の日の夕方、ユダヤ人を恐れて閉じこもっていた弟子たちに現れたイエス様は、「平安があなた方にあるように」と言われ、まず、その手と脇腹を彼らに示されました。その穴は、「あなた方の罪の代価は確かに払いましたよ」という主の愛の証でした。イエス様の身代わりの十字架による罪の赦しは、確かに私たちに平安を与え、死のとげをぬきます。私たちは、不安と心の痛みの代わりに平安と主の愛に包まれて死に対することができるのです。

 復活のイエス様の2つ目の証は、永遠のいのちがあることの実証です。聖書によると、死には第1の死と第2の死があります。第1の死は、体と霊魂の分離です。体は土に帰り、霊はそれをくださった神に帰るのです。そして最後の審判までの間、よみ(ハデス)という所で待つことになります。最後の審判は、生前の行いに応じて公平に行われ、その結果「いのちの書」に名前のない者は火の池(地獄)に投げ込まれます。これが、第2の死です。人は第1の死よりもむしろ、この魂

の第2の死を恐れなければなりません。

 しかし、すはらしいことに、人にはよみのほかにもう一つ行ける所があるのです。そこはイエス様の十字架と復活を信じた者が行く所で、パラダイスと言います。そこで天上の体、すなわちイエス様の復活の体に似た、朽ちない栄光の体をいただく時まで待つのです。イエス様の復活は、私たちがこの永遠のいのちをいただいていることの実証です。冒頭のイエス様の言葉「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とは、第1の死を経験してもこの永遠のいのちに生きるということであり、「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」とは、決して第2の死を経験することはありませんという意味なのです。イエス様を信じる者は永遠のいのちをもち、審きに合うことがなく、すでに死からいのちに移っているのです。ハレレヤ!

 

いのちの季節に

 

 もうすぐ山口県も桜の季節になります。教会のすぐ裏の山のタラの木の芽もふくらんできます。死んだような桜の木に美しい花が咲き、とげとげの枯れ木のようなタラの木の先に、美しい黄緑の芽が芽生えます。まるで復活の主を賛美しているようです。イースターは本当のお祭りです。私たちも心から主の復活をお祝いしましょう。そして愛する者にまた会えるように、死んでも死なないいのちを伝えましょう。

 

 

クリスチャン新聞 2008年3月23日号

イースター特別号掲載

> 死のとげは抜かれた

 

 

 Ogori Grace Church

 

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