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主と共に歩む

 

 

 死ぬことなく天に取り去られたエノクの65才から300才までの人生の歩みは「神とともに歩んだ」と書かれている(創世記5:22)。そして、彼は天に移される前に、まわりの人々に彼が神に喜ばれていることがわかるようにあかしきれていたと書かれている(ヘブル11:5)。何とすばらしい生涯ではないか。それでは、「神とともに歩む」というのは私たちにとってどういうことだろうか?それは祈りとみことばの生活だと思われる。最近の私のデボーション(個人的な祈りとみことばの時)で教えられたことがある。今、歴代誌Ⅱを通読中だが、南王国ユダ王朝3代目の善玉アサが、クシュの大軍が攻めて来た時に、自分の非力を痛感して、「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりありません。私たちを助けて下さい」と主により頼んだすばらしい祈りをして大勝を得た記事がある。けれども、その後、北王国イスラエル玉バシャが勢力を増しユダに上って来た時、アサは自分の考えで何とかなると思ったのか、ダマスコのアラム王に銀と金を送り届けて真ん中に領土のあるイスラエルを攻めさせ、挟み撃ちにして自国の安全を図った。それは成功し、イスラエルがユダに対して築いたラマの町を放棄したのでアサは石材と木材を分捕り・7、それで別の町を二つ建てた。しかし、予見者ハナニがアサのもとに来て「あなたはアラムの王により頼み、あなたの主に拠り頼みませんでした。今からあなたは数々の戦いに巻き込まれます」と宣言した。アサは怒って、その予見者に足かせをつけたが、晩年アサは両足が重い病気になった。私たちは自分ではどうしようもないことは必死で主にお祈りずるが、自分の力で何とかなると思うようなことは自分の悟りに頼って解決しようとする。これは少なくとも「主と共に歩む」ことではない。いつも心を尽くしで主に拠り頼み、-自分の行くすべての所で主を認めることが大切である。

 

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」

(箴言16:3)

 (2014年9月21日)

 

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